日豪の歴史を知る旅

オーストラリアを追求してくると日豪の歴史が知りたくなる。日本の教科書には出てこない為に、オーストラリアを攻めた唯一の国が日本である事も知らない人は多いが、ここでは日豪の歴史に関係する旅の紹介、体験談などを紹介してみたい。

カウラ

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第2次世界大戦中に日豪が戦争をしていたという歴史は意外と知られていません。
また、シドニーから西に330km程の所にあるカウラという場所には日本人の捕虜収容所がありましたが、脱走事件が起こり240名近くの日本兵と4名のオーストラリア人が亡くなっています。今、カウラには日本人墓地があり、カウラの人たちが管理してくれています。また、南半球一最大の日本庭園があり、毎年9月には桜祭りが開催されています。オズ・プロジェクトでは、カウラへの旅の手配を行っています。

弊社では、土屋康夫著 「カウラの風」 と特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃 「和解の海」を販売しています。

ブルーム

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戦争時代を挟んでブルームでは日本人の出稼ぎ潜水夫が4000人近く住んで真珠貝を採る仕事をしていました。今では900人近くの日本人ダイバーの墓地があります。
ブルームで日本人ダイバーから仕事を教えてもらったアボリジニに素敵な話を聞かせて貰いました!是非ともお読みください。

アボリジニが語ってくれた いい話

ダーウィン

日本軍は1943年2月19日ダーウィンへの空爆を皮切りに64回もオーストラリア本土を攻撃しています。
毎年ダーウィンでは2月19日に慰霊祭を開催しており、2000人以上の参加者があります。今でも、ダーウィンのバスツアーに乗ると戦争中に日本が空爆した話をしたり、ホテルにはゼロ戦による空爆の絵が飾ってあったりします。

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ツアー紹介

● 日豪和解の地 カウラの歴史を学ぶ旅

志塚忠夫さんのカウラ訪問体験

IMG_18841-150x150 この旅でカウラに訪問した事で、色々な方にお会いする事ができました。 34年前から2年に一度カウラを訪問してコンサートを開いている男声合唱団「コールファーマー」のコンサートを鑑賞するチャンスがありました。 コンサート [...]続きを読む »

ブルームに残る道「さよならロード」 南 瑠霞 オーストラリア~ルーツをたどる旅1

日本人だった祖父 村上安吉(むらかみ・やすきち)が、和歌山県からオーストラリア北西部に渡ったのは、今からおよそ120年前のこと。ブルームは、古くから日本人が住み着いた真珠貝の街であり、日本人たちの足跡を残す様々な地名が残っています。
『さよならロード』は、そんな街に残る日本語のついた道。とある通りの曲がり角に、この看板がたっていました。誰と誰が、どんな別れのあいさつを交わした道なんでしょうかね。

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村上安吉は、当時写真館を営んでおり、ブルームの歴史的街並みを多くの写真で残していることが、現在話題となっています。

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村上安吉の名を残した「村上ロード」も

ブルームには、マッツォスカフェ(松本カフェ)という日本人由来のカフェがあり、潜水具がトレードマークのマッツォスビールは、観光客にも人気を呼んでいます。この建物もまた、かつて村上安吉が暮らしたことのある家屋として知られています。

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「マッツォスカフェ」

ブルーム・ジャパニーズ・セメタリーには、真珠貝(白蝶貝)の採取のために海を渡ってきた日本人たちの墓地があり、墓碑およそ700基が残され、900名以上が埋葬されています。これは、海外の日本人墓地としては、世界最大級だと言われています。
赤道を越え、海を渡った当時の私たちの先祖は、広いオーストラリアの大地でさわやかな風に吹かれて、空を見上げています。あの日の空、あの日の海は、何も変わらず、現在のブルームに続いているように感じられました。

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「ブルーム・ジャパニーズ・セメタリー」

オーストラリアの日系人たちが眠る町「カウラ」 南 瑠霞 オーストラリア~ルーツをたどる旅2

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1941年、第2次大戦開戦と同時に、オーストラリアにとっての敵国人であるドイツ・イタリア・日本系の民間人は、兵士とは別に強制収容され、終戦まで抑留キャンプで捉えられていました。
日本人・日系人は、戦前から、オーストラリアに暮らしていた国内組が1141人。近隣のニューカレドニアやインドネシアから移送されてきた人が3160人。合計4301人が、敵国民間人としてキャンプに抑留されていたのです。そこで終戦を待たずに亡くなったおよそ200人の亡骸は、のちに改めて回収され、現在このカウラにあるジャパニーズウォーセメタリ―に埋葬されています。

敵国民間人を収容した抑留キャンプは、オーストラリア南東部の、ラブデー、ヘイ、タツーラなどに設けられ、戦前からブルームなどに入植しオーストラリアで暮らしていた私の祖父母や、そこで生まれた母やその兄弟たちも、豪在住日系人としてタツーラキャンプに送られました。そこで1944年に亡くなった祖父村上安吉の遺骨も、現在カウラの墓地に眠っています。
3月には、そうした多くの抑留者について改めて考えようというシンポジウムが開かれ、最終日には、ジャパニーズ・ウォー・セメタリーで、当時の日本兵や日本人・日系人を悼む追悼式が行われました。
私も、祖父の出身地である和歌山県串本町ふるさと大使として、会場で、串本町長のあいさつ文を代読させていただきました。
およそ70年の時を超え、カウラ市の方々、また海外から集まった多くの関係者とともに、かつての出来事を語り合い学び合った時間は、私にとって貴重なものとなりました。

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ダーウィン空爆記念式典参加 & 慰霊の旅

2012年2月 大学生の娘と同級生と3人の旅です。目標はダーウィンの慰霊祭に参加することです。

2月8日

マニラ経由でダーウィンに到着したのは、0時を過ぎていた。フライトが遅れたため、レンタカーのカウンターは既に閉まっていた。急遽、シティー行きの送迎バスに乗る事にする。3人で33ドルであった。宿は1泊のみだったので、バックパッカーを3人一部屋で利用しました。金曜日の夜だったので、街は飲んでいる人達で賑やかでした。飲みに行けば良かったと後から後悔しちゃいました。

2月9日

翌朝、レンタカー会社に行き車を借りてきました。宿の前にあるスーパーマーケットで食料を調達。朝食は車の中で食べながら、カカドウ国立公園に向けて出発。途中、展望台から湿地帯の様子を眺めました。カカドウ国立公園ではノーランジロックに立ち寄りました。2万年前の先住民の壁画を見ました。その後、クィンダーロッジにチェックイン。我々の宿は、シャワー・トイレが共同のロッジ。トイレまでは、歩いて2分ぐらい。部屋の前には共同のキッチンがありました。プールで泳いだり、ビールを飲んだりして寛ぎました。夕食はカップラーメン。この日は、早々とベットにて眠りにつきました。

 

 

2月10日

5時半ごろにおきて、早朝の出発するイエローウォータークルーズへ参加しました。マイクロバスで船乗り場まで移動しますが、水が道路にあふれていました。朝もやの中を船はゆっくりと出港します。野生のクロコダイルや数多くの野鳥を見ることが出来ます。睡蓮の花が美しい。何度このクルーズに乗っても飽きる事はありません。不思議な空間です。

宿に戻り、クルーズに付いている朝食を堪能しました。

宿をチェクアウトして、アデレードリバーにあるダーウィンの空爆で亡くなったオーストラリア人が眠れる墓地を訪問しました。おそらく、この墓地にはあまり日本人は来ないでしょう。もっと多くの日本人に来ていただきたいものです。

アラタイアパートメントに宿泊することになりました。夕食はダーウィンのアラフラゲームでお世話になった夫妻の家に呼ばれてご馳走になりました。坂本九のCDを聞いたり、テレビで一緒にオージーフットボール観戦をしながら楽しみました。

 

2月11日

71回目の慰霊祭に参加しました。2000人近くのオーストラリア人が参加していました。日本人は日本領事館から領事と職員が参加していました。後は我々3人だけでした。州の代表から、日本から合計64回の空爆を受けているという言葉が印象に残っています。我々日本人は、ダーウィンの空爆の事など、知らない人がほとんどだと思いますが、オーストラリアの人達は誰でも日本人が空爆をした事実を知っています。私の使命は、多くの日本人をこのダーウィンに連れてくることだと思いました。

 

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